一般的に整体と言われているものと、野口整体というのは何が違うのでしょうか?
街を歩いていると「○○カイロ」と同じくらい目に付くのが「○○整体」という看板です。
整体もいろんな人が看板をあげていて同じ「整体」という看板であっても「これってマッサージとどこが違うの?」といったような、もみ治療専門のところもありますし、ハンマーで叩いて骨格矯正をするところ、ボキボキと矯正していくところもありで、一口に「整体」といってもさまざまです。
いったい、これら街の整体と野口整体はどこが違うのでしょうか?
様々な整体法をはじめ、カイロプラティック・はり灸・按摩・マッサージなどいわゆる手技療法と呼ばれているものの多くは、本人の訴える痛みや症状の緩和・解消をその目的にしています。
例えば、背骨の歪んでいる人に対しては、その歪んだ骨を矯正していきます。
コリがある場合にはコリをほぐすことのみに専念します。
そして歪んでいたものが正しくなり、コリが無くなったときをもって治療が終了します。
でも、こうした「異常な」部分だけを問題にする方法では、その時は良くなったような気がしていても、本当の意味で治ったとはいえません。
「歪み」にも「コリ」にも意味があります。なんらかの原因があって体にそうした状態が現れていると見るべきなのです。
野口整体では多くの場合その原因をその人の心にあると考えます。
心にある原因が取り除かれた時にはじめて体の異常は治っていく。
それ故、身心を総合的に調整していく必要がある。
と考えます。
野口整体は心身を総合的にみていくという訳ではありますが、あくまでも整体ですので、基本的には身体をみていくわけです。
心のありようが身体に現れ、身体を整えることが心にも影響を与えるわけです。
心身一如ということです。
例えば、
野口整体では、みぞおちの固さをみます。
東洋医学でもよく言われている、上虚下実ですが、みぞおちが虚で下の丹田が実となっているか?
みぞおちが柔らかくなっており、丹田が充実している(弾力がある)状態がよいとされています。
その上虚下実には、心の状態が大きく関わっている言うことです。
心にわだかまりや何かガマンしているなどといことがあると、みぞおちが固くなるわけです。
みぞおちが固くなると、横隔膜の動きが悪くなり、呼吸が浅くなって、身体にもよくないし、落ち着きがなくなったりとまた心に悪い影響を与えたりします。悪循環ですよね。
また、ガマンしていると、みぞおちが固くなると同時に、頭頂部が盛り上がるという現象があります。そこで頭頂部を調整していくとみぞおちも調整されて柔らかく成ります。それが心にもいい影響を与えてくれます。
このように基本的には身体の方から心にアプローチする方法をとっていくのです。
ただ、野口晴哉先生の場合には、心からもアプローチして身体を治すということもやっていたようです。
ほんとの天才だったようです。
「心」と「身体」は一つのもの!!
前述したように、
「身心一如」・「身心不二」という言葉があります。
「心」と「体」は表裏一体の関係にあり、一つであるという意味です。
私たちは、身体の調子がすぐれない時には気分も良くないことを知っています。
おなかがすいてペコペコの時や眠りたくて仕方がない時には、イライラしたりします。これは「身体」が「心」に与えた影響です。
例えば、ゴルフが好きな人なら、ゴルフに行く日は朝早く起きることも苦にはなりません。これが「心」が「身体」に与えた影響です。
このように人は自分が意識するしないにかかわらず、「心」と「身体」はいつでも互いに影響し合っています。
ですので、人の身体を観ていく場合、「身体」だけを観ていくということでは足りないのです。
例えば、背骨がねじれている場合、それは日常における何らかの「心の経験」が背骨のねじれとして表現されていると考えます。
嫌だった、苦しかった、悲しかった、腹が立った…といった生活の中で経験した色々な感情や心の動きが、そのまま体の動きとして体の上に表現されている。
その中でも特に心の中につっかえてしまっていることが「コリ」や「張り」や「痛み」として現れているのです。
ですから、心のつかえがとれて、心がすっきりとすれば、体の上でのつかえもとれ、体もすっきりとしていきます。
こうした「心」と「身体」がすっきりとした状態を、野口整体では、「整体」と呼んでいるのです。
そして、野口整体でいうところの「整体」とは、どういう状態を指しているのか?
ということですが、
「整体」とは整った体と書きます。
野口整体では、ただ単に骨が真直ぐであったり、歪みがなければ良いということを指しているのではありません。
簡単に言えば「整体」とは「真に気持のいい状態」と言えるます。
本人だけではなく他人から見ても清々しく、ピカピカ輝いている。
なぜ気持ちがいいのか?
それは心身ともに整っているということです。
整うということは、身体の面から言えば、心臓も肺も脳も筋肉も細胞も体中の全てが正常に働いていることであり、心の面から言えば、心に何のわだかまりもなく、心が澄んでいるということです。
だからといって病気にならない身体が整体ということではありません。
私たちは風邪を引いたり熱を出したりすることは体の大事な調整作用であると考えています。
風邪を上手に経過させることができれば体の調子は以前にも増して良くなります。
逆に風邪もひけない人は、体を調整できないので、疲れのぬけない「重くだるい体」をいつまでも引きずっていかなければならず、大病にもかかりやすいのです。
つまり整体とは必要な時にしっかりと風邪をひいたり、症状の出る能力のある身体状況であると言えます。
そして生命とは自分自身を保持していく働きを本来的に備えているものなのです。
「整体」とは、しっかりと与えられた本来の生命を生きているということなのですね。
整体であるという身体の状態・・・
それは、具体的にいうと、
上半身がリラックスして、肩や首そして顔?の力が抜けて、腰や肚(丹田)にしっかりと意識が落ちていて、下半身に重心があり、安定している、
といった状態でしょうか。
呼吸は無意識のうちに深い呼吸になっています。
体が軽くて使いやすいので、心の状態も前向きで行動的です。
このように言うと、「整体」はまるで理想の心身の状態であると思われるかもしれません。
でも、私たちも子供の頃には日々溌剌とした「整体」であったはずなのです。
私たちは日々の生活の中で、嬉しくないことや嫌な出来事とも向き合わなければなりません。
私利私欲に突き動かされている複雑な社会、また様々な人間関係の中で「心」が傷つき「身体」がそれに影響を受けたりします。
このような日々の体験に、「整体」であること、溌剌と生きることを見失ってきてしまうのです。
これは仕方ないことでしょうか?
確かにこの世界で生活している以上、嫌なことや苦しいことは避けられないことです。
でも、自分の身体が変わり、自分の感受性が変われば、嫌なことも苦しいこともきちんと受け入れることが出来るようになります。
それどころか、自分を取り巻く世界の見方さえ変わっていくようになります。
自分の身体の在り方、自分の心の在り方、それによって世界はいくらでも変わっていくのです。
さて、このように、野口整体は、最近の一般に整体と言われているものとは、一線を隔するものです。
その整体法をまとめ、体系づけたのが、昭和の天才療術家・野口晴哉先生です。
整体という言葉(文字)そのものを発表したのも野口先生だといわれており、野口先生以前の整体は「正体」という字を使っていたようです。
ですので、本来「整体」といえば野口先生がまとめられ体系づけられたものが「整体」なのですが、様々なところで「整体」呼称を使っているため、現在は「野口整体」という名称になっています。
野口先生は、
「1人1人の、いのちにもともと備わっている自然の知恵を徹底的に信頼し、その働きを全面的に自発的に発揮し、生を全うする」
「本当に大事なのは1人1人が自分の心身のあり方に生じる変化に対する感受性を高め、自己の内に内在されている力を完全に開花させて、生き、そして死ぬことだ。そういう人間の生き方につながらない医療や人間観は、根本的に誤解にもとづいている」
という考えをもっていたので、
治療を受けることによってかえって安心し、自分の身体にずぼらになってしまい「まっいいかげんに生活して身体を壊しても野口先生に診てもらえばいいや」
という人々が増えて来たときに、治療術を打ち切ってしまったということは頷けるところです。
その後の指導としては、活元運動や行氣などといった、自分自身でおこなう調整法では足りないところを指導者にチェックしてもらい、その足りないところを指導してもらったり、導いてもらうというようになっていますが、やはり他力的に治療的に受けられる方も多いようです。
いろいろと野口整体をご紹介してきましたが、
つまるところ野口整体って何????
といことですが、
一言でいえば、
”いきざま”
かな・・・と思っています。
野口整体では
”全 生”
ですね。
とにかく、生き抜く、、、、悔いのない人生を・・・
あまり細かいことに捉われずに、やりたいことをやる!!
それは本来の自分であり、人間の自然を取り戻すこと・・・
最近、いろんなものがくっついてしまって、生き難くなっているのかもしれません。
楽に、自由に生きてみたいものです。